江戸の浅草全体図
江戸名所図会(斎藤月岑)は天保七(1836)年刊で今から一八○年程前・江戸時代末期の様子です。下のスクロールバーを右に移動して、全体をご覧いただいてから、下へお進み下さい。


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雷門
雷門(正式名称は風雷神門)を入ると左右に浅草寺の子院(附属の寺院)が並んでいます. その門前を借りて土産物屋が並んだのが、仲見世通りの始めです。
また子院のところに かしま・秋葉・弁天と書かれています。これは子院が常陸の鹿島神宮・遠州の秋葉権現・鎌倉弁財天等を勧請して末社(出張所)を設け、全国の神社に参拝するのと同じご利益を得ることが出来るようにしてありました。 つまり浅草寺は観音堂を頂点とした、神社仏閣のアウトレットモールだったのです。
 左は歌川広重の江戸名所百景の内の『浅草金龍山』で、雪に覆われた仁王門を風雷神門を通して画いた印象的な画です。 これらに描かれた門は明治維新直前に焼失し、長く仮門だけが置かれていました。
現代の雷門は戦後の昭和三五(1960)年松下幸之助氏の寄進により再建されたもので、その功をたたえて、雷門の大提灯の下には「松下電工」の銘が入っています。

仲見世通りの名物
下の図は江戸名所図会より百年程前の絵本江戸土産(西村重長)の内の 浅草観音風景の一部です。前のページと同じ角度から描かれています。 門のところにかみなり門と書かれていて、この頃から雷門と呼ばれていた事がわかります。
今から二百五十年以上前ですが、当時の土産物店が3件描かれていて、右が「めいぶつ浅草のり」中が太鼓・人形等を売っているおもちゃや (手遊び屋) 左の店は「地はりきせる」と書いてあるので、江戸製の煙管を売っている店です。
 浅草のりは江戸幕府が今の墨田区江東区辺を大規模に干拓するまでは、浅草近辺まで海水が満ち引きして居て、この付近で海苔が取れていた名残です。地張り煙管は御当地作の煙管の意味で、それまで京・大坂で作られた物が全て上等と言われていたのに対し、江戸製に自信を持ちだした事がわかります。
子ども向けのおもちゃは仲見世でたくさん売られていました。  今でも江戸時代由来の狛犬・招き猫・でんでん太鼓・ 飛んだり跳ねたり等の伝統玩具が売られています



       


仲見世から仁王門へ
仁王門の近くに因果地蔵があります。 「何の因果か○○さんに惚れてしまいました。この恋 かないますよう」と願うと必ずご利益があると言われ、芝居にも取り上げられ、大流行りしたお地蔵様です。
みやげ物やを見ると仁王門に向かって右側に数珠屋などの仏具が売られ、その先に錦袋円と書かれた大きな薬屋があります。薬は土産ものとしても喜ばれます。
左側には手遊び屋・手遊び屋多しなどとあるように、玩具などが売られていました。 このように。仲見世には、地方から江戸に来た人々が、手軽な土産物を買うにも大変便利な所でした。



仁王門から本堂へ
この周辺より歓楽街の様相が強くなります。二十軒茶屋をはじめとする水茶屋は独身者のあこがれの美人が給仕してくれる場所です。
仁王門先・本堂さらに右に曲がって随身門までの両がわにある楊枝屋は、浅草名物で、同じ様に看板娘が、楊枝(今の歯ブラシ)を売っている所です。
二十軒茶屋のうしろに芝居 講釈と書かれていています。 浅草など大きな寺のまわりには、正規の歌舞伎芝居より安く見られる小芝居と言われる小屋や、寄席などが開かれ、気軽に楽しめる場所でした。
浅草の講釈師といへば、平賀源内が「風流師道軒伝」と言う伝記まで書いた深井志道軒がいます。その人気は吉原と歌舞伎の最高峰高尾大夫・団十郎と併せて三人組の浮世絵が出た程でした。



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江戸の美人代表
江戸の素人の美人の代表がかぎ屋お仙と柳屋お藤です。
かぎ屋お仙は浅草から少し離れた谷中の笠森稲荷の水茶屋鍵屋の看板娘でした。 お仙はある日突然鍵屋から消え、話題となりますが、お庭番の旗本に見染められて嫁入りし、幸せに暮らしたと伝えられています。 謎めいた消え方も伝説の主にふさわしいところです。
柳屋お藤はかぎ屋お仙と同時代の浅草の楊枝見世の看板娘です。
この二人が江戸の美人の代表で、美人画の祖である鈴木春信を始め大勢の浮世絵師が競って肖像画を出し、時代がずっと後の喜多川歌麿までお仙の画を描いています。
お客を見ると武士が多く描かれています。この人たちは、諸大名が参勤交代で江戸に上る時、国から付いて来て、一年江戸屋敷に勤め、来年殿様帰国の際、供をして国に戻る出張の中・下級武士です。 お偉方の様に交際費で吉原や高級料亭で遊ぶ事も出来ないので、 勤番侍とか浅黄裏とか、田舎者扱いされながら、一生懸命江戸の 雰囲気を味わい、国への土産話しを集めているのです。
下の画の左側に売られている筆の様な物がふさ楊枝で、柳の枝を叩いて房の様にした歯磨き道具です。 箱に入っているのが今のつま楊枝と思われます。実用より土産物だったようです。



浅草寺本堂の周囲
浅草寺は関東では最も古い寺院の一つです。
本尊は聖観世音菩薩 一寸八分(6センチメートル足らず)と伝えられているが、絶対秘仏です(ご開帳の時公開されるのは前立・脇士です)。
三社権現は、この本尊を前の宮戸川(隅田川)から拾い上げた三名を・十社(権現)は御堂を 作り本尊を安置した草苅り達を祭神とする、浅草寺創建に由来する神社です。
これらと五重の塔・念仏堂などで浅草寺の中心が構成されていました。
念仏堂の前に人だかりが有り、源水と書いてあります。 これは居合抜き、独楽回しで人を集め、歯の薬や傷薬を売る 松井源水です。左の画の長い刀の刃の先の方で独楽が回っています。松井家は薬売りの元締めで、将軍にも独楽回しを披露したとも言われ、顔役なのでこの様な場所で商売が出来たのでしょう。



奥山
神仏にお参りした後は精進落しと名目に浮かれ騒ぐのが江戸時代のお決まりです。念仏堂より先は奥山と呼ばれる盛り場になっていて、その要求に答えます。
芝居小屋・見世物小屋・芥子の助と呼ばれる大道芸人などがに人が集まり、水茶屋も酒を供し、菜飯茶屋と言う名で料理屋も並んでいます。今でもこの辺りに行くと、芝居小屋や 花屋敷などもあり、なんとなく 面影が残っています。
ここで有名なのが楊弓と呼ばれる射的場です。水茶屋・楊枝店と同じ様に看板娘を揃えて 遊客を呼びました。ここに物足りない好き者はすぐ近くの 吉原まで足をのばします。



浅草年の市
右は歌川広重の年の市の画で、仁王門近辺です。左は江戸名所図会で、仁王門内側観音堂の西面より、念仏堂のかたを望む図と書かれています。両図から大変な人出であった事がうかがえます。
なお仁王門右の五重塔は戦災で焼失し、現在は本堂左に再建されています。
以下は江戸名所図会の原文です
毎歳(まいさい)十二月十七日十八日 両日のあいた 衢(ちまた)に仮屋を儲け 注連飾(しめかさり) 蓬莱(ほうらいの)飾(かさり )物等 すへて歳首(としのはじめ)の賀(ことふき)に用ゆへき種々を売買す
浅草(大通り およひ下谷(したや)通(りともに 群集す。 殊更境内は尺寸(の地(ち)なく 只人を以て地を覆ふに異ならず
実(に此日の繁昌 江戸第一)にして 遠近に轟(とゝろ)けり。 往古は毎月三八の日 此所にて市立(ちとそ



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節分会(せつぶんえ)
江戸名所図会に此日節分(せつふん)の守札(まもり)をいだす これを受(うけ)得(え)んとする輩(ともから) 堂中に充(みち)て其囂(かまびす)しき事 言葉(ことは)に述(のべ)かたしと書かれています
場所は仁王門でしょうか。節分は豆まきでなく札まきだったようです。江戸名所図会の中でも有名な画です。




本尊観世音菩薩像由来


三社権現由来

  本尊は推古天皇三十六年(628年)に自分から網にかかり出現したとされます。聖武天皇が国分寺 建立の詔を出した天平十三年(741年)より百年以上古く、関東最古の寺院伝説です
浅草寺(せんさうし)観音(くわんおん)大士(たいし)の出現(しゆつけん)ありしは推古(すいこ)天皇(てんわう)三十六年戌子三月十八日なり 土師(はしの)臣(おみ)中知(なかとも)およひ檜前(ひのくまの)濱(はま)成(なり) 武(たけ)成(なり)等(とう)の主従(しやう??)三人 その宮(みや)戸(と)川(かわ)に網(あみ)を下(おろ)して此本尊(ほんそん)を得(え)奉りしよし 縁記(えんき)の中に詳(つまびらか)なり。
本尊が自ら姿を現すのは 長野善光寺伝説と似ています。土師氏は大和朝廷を構成する大豪族の野見氏の一族で、檜前氏は牛馬牧畜の技術で大和朝廷に仕えた帰化人です。
上の伝説は、浅草寺が元々は大和朝廷から関東に進出して勢力を張った豪族のものだったことを言っているのかも知れません。この三人を祭ったのが三社権現で, 現在の浅草神社です。




 十社権現由来
往古(そのかみ)土師(はしの)臣(おみ)中知(なかとも)およひ檜前(ひのくまの)濱(はま)成(なり) 武(たけ)成(なり)等(とう)の主従浅草川に網(あみ)して観音大士の霊像を感得せし頃 此地の草苅(くさかり)集りて 藜(あかざ)をもて仮の御堂を作り、其内に彼の本尊を安置し奉り)けると いひ傳ふ。
其旧跡は今の東谷一の権現の地なり。
草刈は後に 神に奉して 十社権現といつきまつれり。

土師氏は本尊を自宅に祭るのですが、漁師で(江戸名所絵図では漁師です。家が魚臭いので困っていると、近所の木こり・草刈り達が草木でお堂を作って祭った。その場所は今の浅草寺より川に近い一の権現(現花川戸公園近く)と書かれています。 この説話は関東土着の豪族達が、浅草寺を支えるようになった事を示すと考えられています。 この草刈り達を祭ったのが十社(権現)です。




江戸名所図会の浅草 先頭の文と締めの文
最後に江戸名所図会の金龍山浅草寺紹介の先頭の文と最終締めの文です。今回紹介したのは この間四十ページほどの記事・図の抜粋でした。 江戸名所図会の浅草 
先頭の文
金龍山浅草寺 傳法院と號す 板東順禮所第十三番なり 天台宗にして 東叡山に属せり

締めの文
抑(そもそも)当寺は一千百七十余年を経るの古刹にして実に日域無雙の繁昌の霊區なり。 其(霊験の著事は普(あまね)く世に知る所なり。 常に金鈴の玉聲の響 絶ず 焼香、散花の勤行怠る事なく、 朝より夕に至る迄、 参詣の貴賎、 袖を連らねて 場に充満(みちみ)てり。<br> 殊更 月毎(つきごと)の十七日には 通夜の僧俗、 堂中に参籠して終夜(よもすから) 誦経・ 念呪 怠慢なし 又境内売物の数 多きか中にも、 錦袋円(きんたいえん)、 浅草餅、 楊枝、 数珠、 五倍子(ふしのこ)、 茶筅(ちやせん) 酒中花(しゆちやうか) 香煎(こうせん)、 浮人形(うきにんきやう)の類、 殊に浅草海苔(あさくさのり)は其名世に芳し。<br> 手遊(てあそび)、錦絵等を商う店、 軒をならへけり。 他邦の人 こゝに至りて其繁昌をしるべし。




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