江戸の庶民は小噺・笑い話が大好きで、笑い話の本は江戸初期の『醒酔笑』に始まり、幕末の子供むけの絵本まで数百冊が刊行されました。
出典は、以下の本です
 桜川 話(帳綴 桜川慈悲成作 寛政十三(1801)年刊  歌川豊国画
 夜明茶呑噺 安永五年(1776)年   鳥居清経画
お茶あがれ 寛政三年(1791)年刊 北尾政美画
酉の お年咄 安永六年(1777)年   鳥居清経画 明治から昭和にかけても後摺り本・復刻版(印刷本)が沢山出版され、今でもネットや大きな 古書店で、入手可能です。今回の底本は左の物です。

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寺子屋の教材 伊勢物語
小学校高学年位の子でしょうか? 寺子屋で女今川や百人一首が終了したので、お母さんに次の課題の伊勢物語を買ってとねだりました。母親が父親に伝えると、父親は伊勢物語は伊勢参りの案内書だと思っていて、「女の子は 伊勢参りも出来ないから、 買ってやれよ」と言ったというわけです。
女の子の前には「女今川」があります。母親が持っているのは『清書双紙』で、娘が清書した物です。これを先生が承認したので、その教科は卒業になったのです。
この家は裏長屋ではありませんが、私の事を「わっち」と言っているので、大家のお嬢さんではなく、元気一杯の下町娘です。
伊勢物語は在原業平の和歌と恋の物語ですが、こんな物を教材にしていたのです。 
女の子の教育は母親の担当なので、娘もまず母親に頼んでいます。


庄屋 言い渡し
庄屋が代官所の通達を村人に伝達したが、違反者は庄屋だけで、村人は意味も解らなかったと言う話。
「農民は自分で髪を結う事・ 髪結に結わせるのは禁止」 と言う通達は頻繁に出されたが、それ自体、効果が無かったことを示しています。



屁ひり指南
話は屁の曲芸師の女房が屁の縁で芋顔(あばた面)だったというだけの話ですが、
安永三(1774)年両国橋際で 「昔語花さき男(むかしがたり花咲きおとこ)」の幟を立てた屁こき(おならの曲芸)の興行が江戸で大評判となりました。
平賀源内の「放屁論」によると 数珠屁(連続)・階段(音が高くなる)水車・伊勢音頭・義太夫節などがあったと言います。
上に書かれている一日十貫とは銭十貫文で二両半・現在の三十〜四十万円ほどになります。


ゆうれい
気負い組とは鳶(とび)・火消し人足など意気と命知らずを売り物にする連中です。似た物同志の何か可愛らしい夫婦喧嘩ですが、喧嘩や火事場装束にふさわしい鱗の半纏(後ろに掛っている)を着て幽霊で出ると言うところが可笑しく感じます。



もう一つ ゆうれい
死んだ醜女が、亭主が後添えを貰ったのに腹を立て、閻魔大王に幽霊になって出たいと願うと、閻魔は「その顔で幽霊で出ては冥土の耻」と許さない。
すると、傍の鬼が同情して「化け物で出たいと願え」といったと言う話もある。


かけおち
琵琶湖富士山を見染め、深い仲となって、宝永山と言う子供まで作ったと評判になり、耐えられず駆落をして宿に泊まったら、床の間に富士山の掛け軸が掛っているので、富士山が「もう捜索の手が回っている」と嘆いたと言う話。
これは安永六年(1777)年の酉の御年咄にある話で、富士山の宝永噴火は宝永四(1707)なので七十年も前ですが、話自体は噴火の後すぐに作られたものと思います。 。



隅田川の最下流にかかる永代橋に、本来川に入れない千石船(親船).がぶつかり、通行止となった。親船から浅草の米蔵に荷を運ぶ近在船は、いつも永代橋の下をくぐり永代橋世話になっているで、親船の見舞いにも行きにくい等と言っていると、釣船が、昨日から平田(ひらた)船(ぶね)(底の平らな川船)で渡りが始まったから大丈夫と言う。 渡りが付いたには話が付いたの意味がある。
時事ネタに隅田川の船尽くしを盛込んだしゃれた小咄。    


雷親子の夕涼み
雷の親子が黒雲に招待され両国橋の夕涼みに出かけ、花火が始まります。
雷夫婦(妻は稲妻)はびっくりして、「蚊帳を吊って子供を入れろ」と騒ぎ、子供は雷除けのまじないの「桑原桑原」と唱えます。
クワバラというまじないは、昔桑原に落ちた雷が大けがをしたと言う伝説があり、ここは桑原なので、落ちると危ないぞという雷除けの言葉なのですが、雷が唱える所が面白いのでしょう。    



七福神の宴会
最後に目出度い七福神を。 恵比寿様が鯛ならぬマグロを釣り上げ、どうやって喰おうかと相談していると、寿老人が葱を手に入れてネギマにしようと言う。
神職を禰宜(ネギ)と言う事があるのを江戸市民は心得ていました。
七福神―神職―禰宜―葱―ネギマ の連想がすぐつながったと思われます。


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