鳥が啼き 花開く春の朝から雪の夕べまでの江戸の四季の名のある品々を なんとなくかき集めて、酒を酌みかわしながら 画家北尾君に書かせてみると  もう京・大坂の物まねではなく 江戸風と言える物になって来ています。
これは 江戸を見たことのない 故郷の子供達への良い土産になると思い「絵本あずまの花」 と題して出版することにしました。
所々つじつまが合わない所はありますが 二人で飲みながら 書いたためで 酒に免じてお見逃し下さい  飲友達   陳平鯉丈書  今から250年ほど前の明和5年に出版された絵本あづまの花です。江戸の流行りものの由来を述べています。多少眉つばの所もありますが、この頃の風俗が見られ楽しい物です

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 琴
は神世に 天細女命 が 天香弓 をいくつも ならべて弦を弾きならしたのが始まりとのことです
今皆が楽しんでいる十三弦の琴は正式にはと言うもので、後に筑紫の 彦山で色子という命婦が 唐人から曲と共に伝えられたため 筑紫琴 とも呼ばれています。 

楊枝
菅原道真公の御歌に
     忘れても 竹の楊枝を使いしが 願いしことの かなはざりしは
     いつも 竹のようじで潔斎して祈願していたのに 中々望みは達せられないことだ
とあるのを見ると竹楊枝は ずいぶん昔からあるものと見えます
神頼みする人たちには 身を清める必須のアイテムとなっています

 常香
常香言う物を一日中絶やさず 七年間焚き続けると その香りが天に通じるとのことです。
江戸の吉政と言う人が この盤を作る名人とされています。
常香盤はは佛前に香を絶やさないための仏具で、長い経路で、香が長時間燃える様に作ったものです。
それが時間を計る道具になり、花町で芸者がつとめる時間を計る事にも使われました。


 蝋燭
 蝋燭は文禄のころまでは無く その後に中国より伝来しました。軍用の松明などが元になって出来たものでしょうか。
 江戸上野の山谷にある仰願寺で細身の蝋燭の製造を始めたので 今でも仏壇用の小蝋燭は 仰願寺と呼ばれています。
実際にはろうそくは平安時代に伝わりましたが、一般には手の届かぬものでした。江戸中期に、右の図の様にハゼの木を原料とする和ろうそくが出来庶民も使える様になりました

 踊り子
 今江戸で流行の 踊り子 と言うのは その昔 静御前などが太刀などを帯びて踊った 男舞 の姿が残ったものなのでしょうか。 
 この頃は付け髭をし はんてんなど着込んで踊るときは とても女に見えないくらいです.
 江戸の踊り子は 舞・唄・三味線などの芸者のことで、図は屋形船に 道具を持ちこんで、これから宴会が始まる所です。素足が芸者の心意気です

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 モモンガ
小さな子供を泣き止ませるため 泣き止まないとモモンガが来るよ と言ったりします これは野襖 というケダモノのことだそうです。山中では人にいたずらをしたりするものですが、江戸ではほとんど見た人も居ないのに 恐れるのもおかしなことです。
左の男は、小鉢にヒエをまいて作った 今で言う「ミニ盆栽」売りです。季節により、桜草やアサガオの小鉢も売られました。  



 歌舞伎
歌舞伎は 出雲大社の巫女の阿国が神楽をアレンジして 妓女の行う歌舞という名がつきました。
その後 女歌舞伎は禁止され 今は有りません 江戸では 今の 野郎歌舞伎になってから 大はやりして 他国と比べものにならないほど豪華に興行されています。
芝居見物は、江戸時代の女性の大きな楽しみでした。姉妹でしょうか?役者の番付を見ながら、役者の噂話に夢中の様です。


 玉菊燈籠
盆中に燈籠をかかげて死者の霊を祭ることは後堀川天皇の天皇の寛喜年間 に始まったということです。 今江戸では灯籠祭はもっぱら吉原での イベントとして行われています その灯籠の美しさ 仕掛けの面白さは 言葉に言いあらわせない程です。
江戸が都市化するに従い、地域の行事であった盆の祭りも興行の要素が強まり、果ては吉原で若死にした遊女玉菊の供養と唱えて、七八月に 盆灯篭の華美を競う様にまでになりました。 

 ほうき
帚木というのは草の名で 源氏物語の巻の名にもなっています。これから考えると 竹や棕櫚からほうきを作るようになったのは後世のことのようです。 
掃除は昔から清めの意味があり、いろいろな材料で道具が作られましたが、江戸時代には今と同じ棕櫚ほうきや竹ほうきが使われるようになりました


 

 水引き
水引は連歌を書いた紙をとじるためのものでした 小川に 秋の紅葉が散り敷かれ 流れたり 止まったりする風情があるので水引と名をつけたと言う事です    

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 謡曲
謡は慈照院殿(足利義政)の時代から始まったとのことで能や、滑稽なしぐさなどを集めた狂言も同時に興りました。まことに 理屈ぬきで感情ゆたかな お遊びです。今では 小鼓 大鼓 笛 太鼓の名人は皆江戸に集まっています。
右側で振袖を着て鼓を打ちながら唄っているのは、若衆髷で右脇に刀を置いているので男性です。部屋も庭も立派なので、大身旗本の息子なのか、芸で仕える若衆なのか ちょっとわからない絵です。

 乗り物
乗り物とは元々輿を簡略化したもので、 身分の無い者が乗るものでは無かったそうです 竹製の粗末な駕籠でも上のお許しを得なければ乗れませんでした 江戸乗り合いの辻駕籠は元禄のころ許されましたが 初めは百挺にかぎられていたそうです。
武士が茶屋か料理屋の様な店に着いた所です。下がり藤の暖簾がかかっています。家来を連れて居ないので、遊びに来たのでしょう。       

 浅草 絵馬堂
浅草寺は関東の観音様の代表で その功徳は 福聚海といわれる ように 深く広いものなので 願をかける絵馬は数しれずその中には技術向上の祈願まであります。
元々外国から渡来したものですが 願いの音はその国までひびき渡ったことでしょう。
絵馬は神馬を奉納する代わりに、馬を描いた札に願い事を書くもので、奈良時代から有ったそうです。江戸時代には、大きな額に絵馬を描く職人まであり、各種の祈願を掲げました。            


 すごろく
 日本でスゴロクが行われるようになったのは 武烈天皇のころからで “サイコロの目も(不利な)一や二が続くわけではない 良い目がでることもあるものだ“  兼好法師のつれづれ草にスゴロクの上手と言われている人にその手法を聞いたところ「勝とうと思って打ってはいけない 負けないようにと打つのがコツだ」と言った″と書かれています 
絵のスゴロクは絵すごろくではなく、奈良時代に伝わったバックギャモンに似たゲームです。豪華な双六盤も多く作られていました。

 業平しじみ
中川沿いの亀戸あたりで良く売られている物に業平シジミが有り美味で評判です 江戸ではすべての貝類が名物で 他国の人はその味をほめますが 江戸っ子は普段から食べているので 特別と思っていません。
右の屋根船の世話役が、漁師から獲りたての貝類を買い入れています。

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 京おしろい
京おしろいは本家製造本元が京の八瀬にあるので こう呼ばれています。おしろいは持統天皇の時代に始まったとのことで 婦人のたしなみの第一というべきものです。
荷物を広げているのは化粧品売りです。江戸時代はほとんどの品物を物売り が売りあるき、居ながらにして買えました。場所は客商売の店に見えます。4ページ前の駕籠から武士が降りてくる絵の、店の内部かも知れません            

 尺八
 尺八は唐の普化禅師にはじまり 日本では筑紫の宮がこれを習われたことから 絶えることなく 続いてきました。尺八名人は 安田城長 大森宗勲等作者は金虎が最も精巧と言われています。
 虚無僧(普化宗の僧)は敵打ちを目指す武士がよく身をやつしたのですが、江戸中期以降は、ほとんど遊び人が化ける様になってしまいました。
 左の女性、米屋の母娘で、右の虚無僧は この娘との縁談が持ち上がったので、友人偵察と顔見せを兼ねて出てきた所だそうです。娘も承知のようです。

 楊弓
楊弓と言うものは (楊とも書きます)で作ったので その名がつきました。今は蘇芳を削って作られます。 日本では宮廷の宮女 官女の遊び道具でしたが 今 江戸では 盛り場での遊客のゲームとして大そう流行っています。
江戸の盛り場で有名なのが、両国広小路・上野山下・ 浅草奥山です。そのいずれにも男の手軽な遊び場として、楊弓場が沢山ありました。右に「女人坂」の標識があるので上野山下でしょう。

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