正月三日から六日
ヒナ祭り
端午の節句
江戸 隅田川の涼み
江戸城新年儀式
江戸の正月は 諸大名の参賀の行列から始まります。
下の図は、江戸城下乗門口で、行列の大部分は ここで じっと殿様の帰りを待ちます。
元日(ぐわんにち)二日 御一門(ごいちもん)の御方々 国主(こくしゆ) 城主(じようしゆ)の歴々、 三献(こん)の 御祝(いわい)
其外 諸侯(しよこう) 側近・警備役・武官・諸役人・御門番達が御流れを頂く。
又大中納言・参議・中将・少将・侍従・四位・五位・諸大夫等位階を持つ者には 美服二枚ずつ下される。
領知・家禄の大小 官位の貴賎により 台や盆に肴を拝領する。
三日は諸大名の子息や官位を持たぬ幕臣・大名家の人質等が登城し
出入りの商人・町役人などは縁側の外で祝を述べる。同日将軍は大広間へ出、謡初め
五日には上野寛永寺の僧 六日は諸寺の僧・神官・山伏などが挨拶に群集する
下の絵は、大名の跡継ぎ息子の行列です。家来の中で、羽織・袴を着て、刀を二本差し、足袋をはいて居るのが上級武士。
二本差しがお目見え以下の士分、一本差が、中間・小者と言われる武家奉公人です。
駕籠のまわりに、少年の家来が何人か従っています。学友・遊び友達で、世継ぎが殿様になると、側近として支えて行く者達です
雛まつりの起源はよく判らない。源氏物語の若菜の巻にひいなあそびの記事があるので 昔からある事だろう
今は東北奥地の片田舎までも衣冠着飾った内裏雛をまつる
雛の日は どんな田舎も 内裏雛
娘に雛を飾る母は 忘れてた おさな気に戻る 雛かざり
下女の忙しい様子を 前掛けを 取って頂く 雛の酒
草餅は 中国 周の幽王へ 三月三日に差上げた年、国が穏やかに治まったとの古実によると言われる
左近の桜が咲き始め、宮中の桜はめでたく八重であり、 嵯峨野の奥の山桜は 一重である
。
その違いも京の人々の楽しみである
江戸では、上野の桜を吉野の桜に比べ 目黒不動や亀戸天神の山桜は 京都祇園・清水の桜以上だと楽しんでいる
昔在原の業平が 桜を眺め暮し
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
(桜が無ければ、散る心配無しに、ゆっくり過ごせるのに)
発句に
花の王 幼児が見ても 桜かな
憎けれど 花の梢の 小蜘蛛かな
江渡時代の桜の名所は、上野・浅草から隅田川周辺で、前の絵の様に皆の楽しみでした。
のぼりをかかげ、兜を立てるのは中国の神話の武神蚩尤の城攻めの姿とか。
菖蒲やヨモギを軒に差すのは、天平十九年五月の始まる。端午の日の早朝 ヨモギを取居間の掛け、軒にかかげておけば、夏の悪い病を防ぐと言われる
左のページで二人で担いでいるのは釣台で、初節句の祝の品(鯛?とちまき)を運んでいます。
京 加茂川の涼み
華の都 京都の涼みは数有る中 特別の所は賀茂川で、川の廻りの料理屋が、川中に床をこしらえ、涼み所にする。
京中の上下の者たちが、ここで遊興する。売り子が真桑瓜を上流から流して、買い手は掬って食べる。
ある人 瓜の剥き皮が下を向いて流れるのを見て
賀茂川で 蛸になったる 真桑(瓜)かな
又ある人は 盃を流して詩を作る曲水の宴を真似て、盃を流し、そのやりとりを楽しむ。
月の影が川面に映るのを見て
涼みに(来た)か 賀茂川 川面の 夏の月
江戸の涼みは隅田川です。庶民は河原・橋の上で、身分や金の有る者は舟を仕立てて楽しみます。
両国橋は明暦の大火で逃げ場を失って多数の焼死者が出たため、幕府が増設を認めた橋で、両側には広い火除け地を設けました。
火除け地には恒久建築物は認められませんが、仮設の休み茶屋、見世物小屋、演芸場などは認められたので、大きな盛り場になりました。
江戸の夕涼みは、盛り場めぐりを兼ていたのです。
なお両国の打ち上げ花火は本書出版から三十年程後享保十八年(一七三三年)の両国川開きが最初とされています
江戸には屋形舟を貸し出す船宿が多く、中でも汐留から木挽町の間に多い。
五月中旬から八月下旬まで 遊覧船を出す 大川に乗り出して 笛太鼓で歌い囃す者もあり また三味線鼓を鳴らして踊騒ぐ者もある。
永代橋へ出て浅草川を隅田川と呼ばれる所まで漕ぎ上る。
隅田川 夏も濁らないので 澄田川
この川には鴎(かもめ)が多く、昔の歌人が 都鳥と歌に詠み込んだ
名は不思議 江戸や東の 都鳥
喜多川歌麿の橋下美人図で、橋の上で涼む群集と、船遊びをする婦人達です。
寛政年間(千八百年頃)の物。右中央に揚がっている赤いテープの様なものは、御大尽が花火舟に注文して揚げさせている花火です。
高価なもので、今の10万円位かかったそうです。
七月七日の夜 宮中では庭に小机を四脚並べ 燈台九本に点灯し 机の上にはいろいろの品を手向ける。
香炉には一晩中薫物を絶やさない 盥(たらい)には水を入れ 大空の星を写す。
牽牛・織女二つの星が逢う夜である 香花を供え 供具を調え 歌や文章を書いた紙を供え 棹の先に五色の糸をかけ 願をかける。
富・長寿・子供を授かる事など 一つのねがいを三年続ければ必ずかなうと申し伝える。
女性はその夜織女星に向かい 針に糸を通して裁縫の上達を願うのでを ねがいの糸と言う。
宝治百首・後鳥羽院の御製
七夕に 架したる 琴の同じくは ひきもとどめよ 飽かぬ別れを
(七夕に只飾っている琴はどうせなら 弾けば良いのに 短い逢瀬の別れを少しでも引き止められる様に)
お盆に先祖の霊魂を祭ることは宮中でも行われる 天平五年七月に初めて盂蘭盆会が行われた。
うらんぼんとは梵語で、餓鬼の苦しみを救うと言う意味と言う
佛弟子の第一目連行者がその亡くなった母の行末を見た所、六道の内の餓鬼道の中に居たのを悲しみ 釈尊に この苦しみを救う事を願ったところ
七月十五日 夏の修行を終えた僧が供養すれば救われると説かれたと盂蘭盆経に書かれている
昔は御魂祭りは大晦日だったが、其後 七月十五日になった。
御霊(みたま)を祭るので玉祭りと言う。踊は元々女子供が踊りで、男もこれに混ざるようになり、江戸繁盛に従い、大踊りと言っていろいろ趣向を凝らして踊る様になった。
盆踊は先祖への収穫祈願や、収穫感謝の祭りが仏教行事と結びついたもので、地方独自の形態が方々に残っています。
有名な「おわら風の盆」は地域を練り歩く古い形が続いています。
元禄時代は戦国の気分がまだ残っていて、左の絵には、江戸初期の歌舞伎踊りの名残りが見られます。
広重の盆踊り
月見
道灌山虫聞きの図
髪置の浮世絵
節分
江戸名所図絵 王子稲荷大晦日